旧海軍の輸送船、浮島丸は、1945年8月22日夜、青森県の下北半島で鉄道敷設工事などに従事していた朝鮮人労働者とその家族らを乗せ、青森県むつ市の大湊を出港。韓国のプサン(釜山)に向かっていたが、寄港した舞鶴市の下佐波賀沖の舞鶴湾で同24日、突如、爆発して沈没した。
日本側の発表では、朝鮮人524人と日本人25人が死亡した。しかし、生存者や犠牲者の遺族らは、死者が数千人に上ると主張している。東京・中目黒の祐天寺には、引き取られていない遺骨が現在も安置されている。
この出来事は当初、日本では報道されず、翌月、韓国の報道によって明らかになった。
浮島丸が爆発した原因は、米軍が設置した機雷によるものとされているが、詳しい原因はわかっていない。韓国人の生存者や遺族ら80人は1992年、日本政府に約28億円の賠償などを求めて集団訴訟を起こしたが、2004年11月、最高裁第3小法廷は原告側の上告を棄却する決定を出し、原告側が逆転全面敗訴した大阪高裁判決(2003年5月)が確定した。
舞鶴市佐波賀の殉難の碑公園には、1978年に市民らでつくる「浮島丸殉難者を追悼する会」により殉難の碑が建てられた。同会は毎年この場所で追悼集会を開いている。今月24日に行われた今年の追悼集会には日韓市民や在日コリアンら約250人が参列。犠牲者に黙とうをささげ、殉難の碑に花を手向けた。品田茂会長は「亡くなられた人たちや、故郷で帰りを待っていたご家族の悲しさと無念さを考えると今も胸が痛む。戦争を起こさないためにどうしていけばいいのかを、世界中の人々と考えて語り合い、平和を求める声を上げていきたい」とあいさつした。
事件をめぐっては今年5月、ジャーナリストの情報公開請求に対し、政府は乗船者が記された名簿を初めて開示。【1】青森県の大湊海軍施設部の「乗船名簿」(2429人、1945年8月24日)【2】大湊海軍施設部第4部隊長の「乗船者名簿の件報告」(333人分、45年8月19日)【3】日本通運大湊支店の「浮島丸乗船朝鮮人名簿」(144人分、45年8月22日)の3点が公開されたが、個人名などは塗りつぶされていた。また、開示されたのは一部で、厚生労働省は5月、乗船者などの「名簿」と名の付く資料は「おおむね70くらいある」と説明している。
名簿の存在が明らかになったことを受け、戦時中の動員被害者らの遺骨返還を担当する韓国・行政安全部(部は省に相当)は、韓国外交部を通じ、関連資料の提供を日本側に要請した。
未だに謎が多い浮島丸事件。「浮島丸殉難者を追悼する会」の品田会長は24日の追悼集会で「79年がたつが、乗船者数も犠牲者数も爆発の原因も解明されていない、遺骨も日本に残されたままだ。解決する責任は日本と日本人にある」と指摘。政府に対し、保有している乗船者名簿の全面的な公開と遺族への早期提供を求めた。
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