1934年生まれの李氏はソウル大学法学部、米エモリー大学で学んだ後、ソウル大教授となり、政治学を教えた。李氏は来るべき韓国の民主化に対応するため、在職中、考えを同じくする教授らとソウル国際フォーラムを設立した。また、韓国紙の中央日報によると、88年、当時のノ・テウ(盧泰愚)大統領から特別講義の依頼を受けた李氏は、英連邦(コモンウェルス)の概念を南北関係に適用した「コリアン・コモンウェルス」の概念を30分間にわたって講義したという。当時、盧氏は「私は民主化の課題を誠実に遂行する。南北統一については、李教授が講義で述べた通り内閣に入って推進してほしい」と話し、李氏に入閣を打診したとされる。その後、李氏は盧政権からキム・デジュン(金大中)政権に至るまで、3つの政権で要職を歴任した。盧政権では国土統一院長官を務め、その後、大統領政治特別補佐官や駐英国大使などを歴任した後、金政権では首相を務めた。
96年には、当時与党の新韓国党から比例で国会議員選挙に出馬し当選。同党の代表となり、一時はキム・ヨンサム大統領の後継候補に浮上した。大統領候補予備選では権力の分散、後援会のない政治など、「新しい政治モデル」を掲げて挑んだが途中で断念。中央日報によると、李氏は当時、「政策に異議を唱えてくる候補を待っていたが、一人も、一件も善し悪しを問いただす候補はいなかった」と嘆いたという。その後、李氏は、同年12月の労働法改正案の強行採決が国民の反発を買い、党代表を辞任した。
IMF通貨危機の渦中に発足した金大中政権では、危機解決のために力を貸してほしいとの金氏からの求めに応じ、李氏は議員を辞職し駐米大使に就任した。金氏は米国の政財界に幅広い人脈を持ち、首相まで務めた李氏が適任だと考えていたとされる。韓国紙の毎日経済によると、李氏は就任当時、「国が必要とするならば最善を尽くすことが道理だと考え、大統領の求めに従うことにした」と話したという。李氏は通貨危機の早期収束に尽力し、その後の米韓協力や国際的な信頼回復にも奔走した。
李氏は日韓関係の発展のためにも多大な足跡を残した。首相就任前から2002年のサッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会の招致委員長を務め、開催実現を導いた。2015年には「韓日・日韓賢人会議」のメンバーの一人として、日韓の政界の元重鎮らとともに当時の安倍晋三首相と会談した。当時、日韓関係はぎくしゃくしており、李氏はこの席で「日韓関係に長年携わった関係者たちが、建設的で明るい日韓関係の雰囲気づくりの一助になればと考え、賢人会議を立ち上げた」と説明。その上で、「1965年の韓日国交正常化は非常に難しい状況での決断だった」と振り返り、「現在、両国間で懸案がこじれているが、重要な峠をうまく乗り越え、第2の国交正常化を成し遂げなければならない」と強調した。2018年には、李氏が理事長を務めていたシンクタンク「ソウル国際フォーラム」と、中曽根康弘元首相が会長を務めていた「中曽根康弘世界平和研究所」が「日韓共同宣言」を発表。「民主、平和、人権、法の支配、自由という両国で共有する五つの価値にのっとり、関係を一層発展させていく」などとし、日韓関係の発展の重要性を訴えた。
2014年、日本政府は日韓文化交流基金の会長を務めていた李氏に旭日大綬章を授与している。内閣府は当時、李氏について「日韓両国の政治や文化など各分野の交流や相互理解への貢献が大きい」とした。
李氏の訃報を受け、ソウル市内の病院に設けられた遺体安置所には多くの人が弔問に訪れ、長い列ができた。本日8日朝、李氏の告別式が執り行われた。
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