韓国大統領には国会で議決された法案に対し異議がある場合、特定期間内に再議を請求できる権限、すなわち拒否権を持つことが、憲法第53条で規定されている。拒否権が行使された法案が再可決されるためには、在籍議員の過半数の出席と、出席議員の3分の2以上の賛成が必要となる。
尹大統領は就任以来、拒否権発動を繰り返している。今年1月には、尹大統領の夫人のキム・ゴンヒ（金建希）氏が輸入車ディーラーの株価操作事件に関与した疑惑を捜査するため、特別検察官を任命する法案に対し、拒否権を行使した。また、2022年10月にソウルの繁華街のイテウォン（梨泰院）で159人が死亡した雑踏事故の真相究明や被害者支援などのための特別法にも、尹大統領は1月末、拒否権を発動した。特別法は、真相究明のために特別委員会を設置し、追加の調査を行うことを骨子とするもので、この法案に政府は反対の立場を示し、再議決を求めた。
尹大統領の度重なる拒否権の発動は、自身の支持率低下の一因ともなり、先月10日に行われた総選挙では、尹政権を支える与党「国民の力」が大敗した。一方、大勝した野党勢力は、憲法改正案や大統領の弾劾を求める議案を可決できる200議席には届かなかったが、引き続き、政局の主導権を握ることができる。
選挙結果を受けて、これまで「独善的」と批判されてきた尹大統領の政権運営も転換を迫られることとなった。先月29日、尹大統領は2022年5月の政権発足以来、初めて「共に民主党」のイ・ジェミョン（李在明）代表と会談。李代表は尹大統領が1月に拒否権を行使した、前述の梨泰院事故の特別法案に関しても取り上げ、成立に向けて協力を求めた。法案は与野党の合意で一部修正された後、今月2日の本会議でようやく可決した。
尹大統領による拒否権の行使は、またもや繰り返され、今月21日、海兵隊員の殉職事故をめぐる政権の疑惑追及を図る法案に対して発動した。昨年7月、南東部のキョンサンプクト（慶尚北道）の水害現場で行方不明者を捜索していた海兵隊員が急流に巻き込まれ死亡した。この事故の捜査をめぐり、大統領室や国防部（部は省に相当）などが圧力をかけたのではないかとの疑惑が取り沙汰されている。この疑惑を、政府から独立した特別検察官に捜査させる法案（特別検事任命法、特検法）が今月2日、最大野党「共に民主党」の主導で国会本会議を通過したが、前述のように尹大統領が拒否権を行使したため、審議がやり直されることとなった。
韓国大統領室のチョン・ジンソク秘書室長は、既に警察や高官犯罪捜査庁が当時の事故対応を調査中だとして「捜査が不十分な時にのみ適用すべき特別検察官制度の趣旨に合わない」と指摘するが、この法律が施行されれば、尹大統領や大統領室の中枢まで捜査対象となる可能性があるため、拒否権行使はそれを避けるためとの見方も出ている。
一方、尹大統領は就任2年を迎えるのに合わせて今月9日に開いた記者会見で事故に言及。「再発を防ぎ、犠牲者の名誉回復と責任の所在を明らかにするために、真相究明が厳正に行われなければならない」と述べ、場合によっては捜査に特別検察官を任命することに一定の理解を示した。
野党は批判を強めており、「共に民主党」のイ・ジェミョン（李在明）代表は、尹氏がかつて大統領選挙の候補者時代に「特検を拒否する者が犯人だと言った」と指摘。「それなら尹大統領は犯人であることを自ら告白したのではないか」と主張した。また、韓国紙の朝鮮日報によると、次期国会で議長就任が有力視されている「共に民主党」のウ・ウォンシク議員は「尹大統領に警告する。特別検察官法の成立こそ国民の民意だ」と指摘した。
一方、前出の韓国大統領室のチョン秘書室長は、野党が求める特別検察官制度については「捜査機関による捜査が不十分だったり、捜査の公平性または客観性が疑われるケースのみ補充的・例外的に導入可能な制度だ」とし、海兵隊員の殉職事故の捜査はこれに該当しないとの考えを示した。
野党は同法案を28日の本会議で再議決する方針だが、韓国の公共放送KBSは「『共に民主党』をはじめとする野党陣営で法案に賛成するのは全296議席のうち180議席と3分の2に満たないため、法案が可決する可能性は低いとみられている」と伝えている。
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